水輪フリースクール

水輪に来た理由

「本当に求めてきた生活がここにある」T.Kさん

私は16~23歳まで覚せい剤を使用し、薬物依存症という病気を患いました。

10代のころ自分は人に対し、親に対し、教師に対し、世の中に対し、そして大人に対し、絶望を感じていました。家の中では兄が摂食障害になり、夜、夜中に暴飲暴食をしては吐くことを繰り返し、そんな兄に対し、はれ物に触るかのように対応する親、本気で関わり向き合おうとしない親に対し、疑問を感じていました。学校では暴力をふるう教師や、セクハラをする教師、街に出れば援助交際を誘う大人たち。学校内ではいじめが盛んになり、中の良いグループの中で集団無視をしたり、呼び出しては暴言を吐いたりする交友関係。

いったい何が正しく、何を信じたらいいのかわからずに、ただ強くなりたい、満たされない思いをどうにかしたいという思いが重なり、依存症という病気にかかりました。
最後に薬をたってから6年たちますが、まだ回復途中だったころは、とにかく薬をやめたい一心で回復施設に通いました。どんなにやめたくても止まらなかった薬を、やめるきっかけになったのは、本で読んだ「今起こっていることに意味のないことは決してない。そして乗り越えられない壁はない」という一節だった。このころは依存症の後遺症から、外に出るのも怖く、どこに行っても、親に送り迎えをしてもらっていた。そして、して頂いたことに対し、病気なのだから当たり前と思っていて、感謝をすることはなかった。

ここに来てから、どれだけ自分が、身勝手に生きてきて、わがままを通してきたかということを改めて認識しました。
ここに来たのは、私の病気がだいぶ回復し、薬に対しての欲求もなくなり、会社に勤め、最初はお給料をいただき、友達と遊び、ほしいものを買い、自分の浴を一時的に満たすことはできても、それが心の底から満たされている自分ではないことに、違和感を感じた。本当の不安、本物の生き方、そして自分がこの病気にかかったことで気付き、求め始めた時にここのことを知り、学ばせていただくことになりました。

ここにきて毎日を生き、いろいろなことを体験する中で、今自分が何に気づきどうあるべきか?また将来的にどう生きたいか?
ここにきて学ばせて頂いたことは数多くあります。
本気で人と関わるとはどういうことか。今までは散々好き勝手に生きてきてしまった自分本位の生き方だったが、この集団生活を通し、他者の存在する生き方を学ばせていただいています。
ここでは真剣に相手の将来を考え、なおした方がよい癖、考え方などを誰もが指摘してくれます。

そんな関わり方をする会社の人間関係や、交友関係は今までにありませんでした。なぜならそんなことを言ったら、うるさいと思われる、嫌われるのではないかという、自分の中の恐れや、そこまで深くかかわろうとしない、愛のない行動だと思います。
初めてここに来てから、人に言うことができない、気付いたことがあっても言えない。そんな生き方をしてきた私に、みどり先生はそんなに自分がかわいいのか?と問われました。自分の内をみてみると、うるさいとおもわれるのではないか?嫌われてしまうのではないか?そこまで言える自分だろうか?と感じていた。

本気で相手と向き合う、関わるということは、それを捨てること。そうするとおのずと、淡々と言える。嫌われても憎まれても、相手のことを考え、愛を実現することができるか?
そしてそんな真剣に生きる人たちの中で、生活しているうちに自分もそうなりたいと思うようになった。それは自分に言い続けていただいたことで、成長し乗り越えることができ、それが感謝に変わったときからです。
伝えるべき時に伝える。己を捨て本気で伝えられるようになったのは、ここ最近だと思います。そして真剣に生きるほど、己を捨てられるのだときづかされました。

つい先日、お客様に対し、失礼なおもてなし料理をお出ししてしまったことがあり、腹の底からひどいことをしてしまったと思いました。自分に足りなかったのはお客様に最高のおもてなしをするという絶対的な思いだった。
例えば、あまり言うことができなかった厨房の人にきちんと言うことができなかったが、絶対にお客様に迷惑かけられないと心底思ったからこそ淡々と言えるようになりました。その思いがあれば、どんなに忙しくてもどんな理由があっても失敗するということはありえない。
そのことがあってから絶対にミスは起こしたくないという思いが高まり、嫌われるとかうるさいと思われるという感情が一切なくなった。

ここが水輪のすごいところだと思います。
常に高め続け、共に成長しあえる場所は今までに出会ったことはないし、私が本当に求めてきた生活がここにあると感じています。
将来的には、ここいのちの森水輪を訪れた方々がいやされ大切なことに気づき、ここに来てよかったと心底思っていただけるホスピタリティのある場にしたいと思います。

「多くの事を水輪で学ばせていただきました」R.Sさん

きっかけは父の死があり、20歳だった自分は現実を受け入れられず、大人として自立していくことから逃げ出し、引きこもりとなったことが理由としてあります。1年間引きこもり、どうしようもなくなったところを塩澤先生に助けられ、水輪に来ました。

水輪にきた自分は「今に生きる」ことが全然できず、過去のことをああでもないこうでもない、未来のことを不安に思いどうしよう、悲しい、苦しいという感情に巻き込まれて実習が全然できずミスばかりでした。そんな中さおりさんに出会いました。

私が心をもんもんとして、悲しい苦しいに巻き込まれているのに、さおりさんは生きていること、それ自体がうれしくてしょうがない。というような笑顔で笑ってくれていました。その笑顔を見て私ってなんなんだろう、今をおろそかにして、今に感謝できない自分に気が付きました。

さおりさんは常に「今」を一生懸命生きておられます。
学生のころは福祉を学びましたが、人とのかかわり方、生き方がわからず、人間関係のなかでうまくかみ合わないこと、ずれてしまうことに悩んでいました。

子供のころから幸せとはなんだろう、幸せになりたいと考えていました。
教員をし、祖父母との関係に悩む中で統合失調症となった母の姿を見ていて、学歴でもなく、お金でもない、人が幸せになるとはどういうことなのだろうと、ずっと考えてきました。まわりの大人の生き方を見ていて、本当の生き方、親に頼り、お金をあてにする生き方ではない、○○の子供、何かの肩書に縛られる自分ではなく、自分自身を生き生きとさせて生きる生き方。何かに頼るのではなく今を真剣に生きていくことが自分を輝かせていく道なのだということを、水輪で教わりました。

「ここで私の可能性を開いて頂きました」T.Wさん

私は水輪には、自分をいやすために、カウンセリングや、メンタルヒーリングステイで来ました。

ここに来た当時は、心も閉じ、身体も首や頭の痛みで動くこともできない。自営でやっていた理容師も、1日たっていることができず、1人を仕上げることも難しいくらいな状態でした。離婚がきっかけで、大切なものを失い、泥沼のように暗くて静かで、怖れしかないところに心が行ってしまい、何かすべてがお手上げの状態で、寝たり起きたりしながら仕事をしている状態でした。

不思議ともっともっとこころの奥の方で、「生きたい」という小さな声がしていて、慕ってくれるお客様のために仕事に打ち込んで、自分を立てていこうと決心をしたのにもかかわらず、思うように体が動かず、途方に暮れていたところ、水輪通信の巽先生の記事に出会い、塩澤先生と巽先生のカウンセリングを受けたことがきっかけで、今ここに私はいます。

今はスタッフ実習生のご飯づくりをしたり、厨房に立ったり、ハードな仕事も1日中夜遅くまでやれるようになるほどまでに回復しています。
毎日の生活の1つ1つのこと、顔を洗うとか、歯を磨くという当たり前の作業を1つ1つ今に集中して行うというところから始まり、掃除機をかける、床をふくという作業をすることで、今この瞬間に自分をもっていくことで徐々に元気になっていきました。

苦しい自分が出てきて動けなくなったときも多くありましたが、「ド真剣に生きる」という言葉で助けられ、もう少し頑張ってみようと、やっているうちに1日1日動けるようになっていました。

その間も、塩澤先生のケアや叱咤激励で背中を押され、可能性を開いて頂きました。今は新米スタッフとして学ばさせていただいていますが、いろいろなところで至らないこと、失敗することも多く、とても自分自身ではスタッフということが恥ずかしいくらいなのですが、「スタッフはスタッフの実力があるからスタッフにするのではなく、スタッフの可能性があるからスタッフにするんだ」と先生方はおっしゃっています。

そうやって大きな心でいてくれることに感謝をして、一歩一歩、一秒一秒いのちの森を支えることができる様、努力していきたいと思います。

「水輪を選んだ理由」T.Oさん

水輪を選んだ理由

自然や人に優しくできる仕事は何か、今の世の中に本当に必要な仕事とは何か、今の自分が具体的にやれる善いこととは何かを考えていた時、農業という仕事が頭に浮かびました。自然に感謝し、生きていることを実感し、慈悲の気持ちをもって人や自然に接し、自らを与えられる存在でありたい、そんな綺麗な心をもって生きていきたいと思った時、水輪ならそのような生き方ができるのではないかと思いました。

水輪の一員になるためには、自分の心を綺麗な心にする「覚悟」が必要であると私は思いました。それは同時に自分の心の弱い部分と向き合う必要がある、ということでもあると思います。

自分の心の弱い部分と向き合うことは時にとても怖いことではありますが、自分の心や体と向き合い、自然や人と向き合い、命に向き合い、世間一般の流れとは違う、共生という命に優しい生き方に真剣に向き合おうとしている仲間がいると知れば、自分もそんな人たちと一緒に善いものを作っていきたい、そんな風に思いました。

私がこのようなことを考えるようになったのは、昨年の6月から真剣に取り組み始めた瞑想によるものだと思います。これまで自分との向き合い方を色々と模索してきた中で行き着いた方法が、ヴィパッサナー瞑想でした。瞑想グループで出会った人たち、そして私を指導して下さった師匠がいたからこそ、私の想いが加速したのだと思います。

瞑想により自分の心を深く観察し、心を浄化し、そして本来の自分に近づいていこうとしたとき、怒りや疑念、迷い、孤独感、依存心など、とてつもなく脆弱な心が自分の中にあると気づきました。瞑想は生きる上での土台になっていると私は思います。いつも自分が自分自身に気づいているかどうか、それなしにはどんなにすばらしい道具があっても、善い使い方はできないと思います。いつも正しい心で物事に当たりたいと思うのです。

そのためには農業だけではなく、自分自身とも真剣に向き合う心構えが必要です。心の教育のためにも真剣に取り組んでいる水輪なら、私が持っている想いを大きく広げられるのではないかと思いました。

私の知る限りここまで食や農だけではなく、教育や医療、環境、命に対して力を注いでいる場所は水輪以外にはありません。それが私が水輪を選んだ理由です。